新島襄の生涯
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新島の考えに賛同していた京都府顧問山本覚馬から既に購入していた旧薩摩藩屋敷跡の土地 現・今出川校地)に、翌年9月には二つの校舎と一つの食堂が建てられました。 切支丹邪宗門禁制」の高札が取り外されてはいましたが、まだまだ僧侶や神官たちの反発は凄まじいものでした。投石やヤジに包まれる中、北隣は相国寺、南隣は御所という、仏教と神道の狭間での、困難な船出でした。 3. 三十番教室」と熊本バンド (開校するときに、 校内では聖書を教えない」という内容の誓約書を交わしていたので、最初は新島の自宅で聖書の授業が行なわれていました。旧薩摩藩屋敷跡に校地を移すと、道を隔てた校外にある豆腐屋を購入して聖書の授業が行なわれました。この最初の神学館ともいうべき廃屋は、 三十番教室」あるいは イングランド」と学生たちに呼ばれていました。(熊本では、藩がアメリカから(L.L.ジェーンズを招いて洋学校を開校しました。しかしキリスト教に共鳴した(35(人が熊本市花岡山の山頂に集まり、キリスト教の精神で社会に仕える決意表明書に署名をしました。周囲は衝撃を受け、激しい迫害が起こり、1876(年(9(月に洋学校は廃校となってしまいました。L.L.ジェーンズの紹介で、学びの場を失われた学生たち約(40(人を同志社英学校は受け入れ、余科 神学科)を設置して 三十番教室」で聖書講義が行なわれました。この若者たちは、のちに 熊本バンド」と呼ばれました。 4. 自責の杖」事件 ((同志社開校5年目の1880年3月、事件が起こりました。教師会は1878年9月に入学した学生のクラスと1879年1月に入学した学生のクラスを一つにして授業を行うことを決めました。この決定に不満を持った上級生たちは 御伺書」を提出して、学校の姿勢を問いただしました。やがて無断欠席というストライキにまで発展しました。1880年4月13日の礼拝で、新島は 集団欠席という校則違反は彼らの罪でも幹事の罪でもない。校長である自分の落ち度であり不徳のいたす所である。よってその校長を罰する」と語って、携えてきた杖が折れるほどに左手を打ち続けました。( その中にいた学生の一人である徳富猪一郎 蘇峰)は、この 自責の杖」事件の後に退学しますが、やがて文筆家として活躍していきます。そして退学後も献身的に新島の同志社大学設立運動に参加し、 同志社大学設立の旨意」作成のために大きな働きをなし遂げました。

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