新島襄の生涯
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ました。その中で一人の農夫が帰りの電車賃を節約し、その分の2ドルをささげてくれたエピソードは、後世まで語り継がれることとなりました。新島はキリスト教の伝道と学校設立という思いを持ちながら、日本へと向かったのでした。 第四章(帰国から同志社英学校開校まで 1.学校設立に向けて 脱国してから(10年後の1874年11月26日、新島は横浜港に降り立ちました。その翌日、人力車を三台借りて安中に向かった新島は、江戸から故郷に帰っていた家族との再会を果たしました。そして、約一か月の安中滞在後、新島は関西に向けて出発します。大阪、神戸にはアメリカン・ボードの宣教師たちがすでに活動をしていたからです。早速新島は開校許可を得るために大阪に向かいました。しかし、当時の大阪府知事の渡邉昇はキリスト教主義を掲げることを許さなかったため、断念せざるを得ませんでした。次に向かった京都府知事の槇村正直は、新島の申し出を前向きに受け入れ、協力者として山本覚馬という人物を紹介してくれました。( 当時、山本覚馬は京都府顧問という要職につき、植村とともに産業の育成や教育の推進に力を入れていました。山本覚馬はもともと会津藩の武士でしたが、幕府側として鳥羽・伏見の戦いに参加し、失明した後京都にあった薩摩藩邸に捕らえられました。しかし、そこで側近に筆記させた新政府宛ての建白書 『管見』)が高く評価され、釈放後も京都に留まり、京都の近代化に尽くすことになりました。新島の話を聞いた山本覚馬はその学校を京都に作ることを勧め、しかも自分が持っていた土地を提供してくれました。( こうして(1875年8月、新島は山本覚馬と連名で京都府に 私塾開業願」を提出し、アメリカン・ボードの宣教師デイヴィスが最初の教員として加わることになりました。ところが、開校のうわさを聞きつけた仏教の僧侶や神社の神官たちによる排斥運動が起きたため、校内では聖書を教えないということを京都府に誓約しなければなりませんでした。 2.(同志社英学校開校と軋轢 ((1875年11月29日午前8時、新島の借家で行なわれた祈祷会から 官許同志社英学校」が始まりました。 志を同じくする仲間たちが集う結社」である同志社は8人の生徒と2人の教師 新島襄とJ.D.デイヴィス)からなる小さな小さな一滴でした。 あの朝、開校に先立って新島が自宅で捧げたあのやさしい、涙にみちた、まじめな祈りを私は決して忘れることはできない」と、デイヴィスは後に執筆した新島の伝記 『新島襄の生涯』)に記しています。(

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