き、これで日本に帰国する道が開かれました。しかし、公費を受け取って政府の束縛を受けることには気が進みませんでした。日本政府は新島に帰国命令を出しましたが、これも、森の働きかけにより神学校を卒業するまで米国に滞在できることになったのです。それは岩倉使節団のために、アメリカの教育制度を説明する役割を新島に担わせたいという考えからでした。( 1872年3月、岩倉使節団が多くのことを学ぶために視察訪問に来た時、新島は文部理事官田中不二麿への協力のために呼び出されました。そこにはすでに(12(名の公費による日本人留学生がいて、田中に対して、留学生たちは殿様にするような挨拶の仕方をしました。しかし、新島は軽く会釈するだけで、田中も新島に握手だけを求めたのでした。この時、新島は岩倉使節団の仕事を手伝うことを決めました。( 2.ヨーロッパ教育視察( ((田中の信頼を得た新島は、アメリカの教育制度の視察のためにアメリカ国内のさまざまな学校を訪問する際の案内や通訳、そして視察報告書の作成を依頼されました。そして、田中からその後のヨーロッパ視察にも同行してもらいたいという依頼を受けたのです。新島はアンドーヴァー神学校を1年間休学することになり、田中文部理事官に随行することになりました。( 欧米のさまざまな学校の役割を目の当たりにするうち、政府関係者は日本も教育の制度をしっかり作らないといけないという考えを持ち始めました。田中は日本の教育制度を整えるためには新島の協力が必要だと感じ、一緒に帰国することを望みました。しかし、新島はアンドーヴァー神学校での学びを再開することを決めていたのでこの申し出を断りました。この時すでに新島は、日本にキリスト教主義学校を設立する夢を抱いていたのです。( 3.アメリカン・ボード年次大会での演説(( ヨーロッパからアメリカに戻った新島は、宣教師としてアメリカン・ボードから大阪に派遣されていたゴードンから手紙をもらい、帰国してその働きを手伝ってもらいたいという要請を受けることになります。神学校を終えて牧師資格を得た新島は、アメリカン・ボードから宣教師として日本に派遣されることになりました。( 1874年10月、バーモント州のラットランドで開催されるアメリカン・ボード第65回年次大会で、新島は挨拶をすることとなっていました。グレイス教会の1000人ほどの満員の聴衆の前で彼は、自らに起こった奇すしき御業のことを語り、そして、祖国がいかにキリスト教に基づく教育を必要としているかを強くアピールし、寄付を募ったのです。多くのものがそれに賛同し、最終的に総額5000ドルほどが集まり
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