新島にかかる一切の費用を、ハーディーは負担することになりました。 本来なら寮に入らなければならなかったところを、新島は英語力がつくまで下宿をすることになりました。ミス・ヒドゥンはフィリップスアカデミー在学時の下宿先の主でした。彼女も( 脱国の理由書」を読み、世話を引き受けることにしたのでした。また、下宿先が同じで、アカデミーと同じ敷地内にあるアンドーヴァー神学校に通うフリント夫妻は、新島に丁寧に勉強を教えてくれました。このように、見ず知らずの自分に出会う多くの人が親切にしてくれることに、新島は驚くのでした。ヒドゥンは教会学校の教師だったので、新島は、しばしばその教会を訪れるようになりました。その後の1866年12月、新島はアンドーヴァー神学校付属教会のバーレットチャペルで洗礼を受けました。 3.アーモスト大学時代 1867年9月、新島はフィリップスアカデミーからアーモスト大学に進みました。アーモスト大学では自然科学を中心に学ぶコースに入ることになり、とりわけ地質学に興味を持つようになりました。哲学と宗教の教師であったシーリー教授は、新島が寮に入る前や休暇で寮が閉じた時、病気になった時(などに彼を自宅(に迎え入れて世話(をしてくれました。新島はシーリーの人格を通して(、人間として、キリスト者として、教育者としてどのようにあるべきかを学んだのです。そして、そのシーリーも新島を評して、( 金にメッキする必要はない(」と言い、新島の人格を評価したのでした。 新島のルームメイトは、ホランドでした。彼は大学で最良のクリスチャンと言われた新島と同室になることを望みました。( 静かなことハツカネズミのごとく」がホランドの新島に対する評でした。新島とホランドの共通の趣味は、絵を描くことと鉱物採取で、新島とは毎晩聖書を一章ずつ読み、祈り合いました。 新島は1870年7月、理学士の学位を授与されてアーモスト大学を卒業しました。新島は(アメリカの大学を卒業した最初日本人(となりました(。その後、彼の同級生たちは卒業三十年を記念して、新島の肖像画を作成して母校に贈りまた。現在もジョンソン・チャペルには新島の肖像画が掲げられています。 第三章 ヨーロッパへの旅と抱いた志 1.アンドーヴァー神学校時代 アーモスト大学在学中に牧師になることを志していた新島は、1870年9月、アンドーヴァー神学校に入学します。ここで寮生活を送りながら神学を学んでいたところ、翌年の3月、駐米公使森有礼がボストンで新島に会いたいと連絡をしてきたのです。森有礼の計らいで、新島は留学免許状とパスポートを取得することがで
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