新島襄の生涯
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この頃、新島が通っていた蘭学所の先生が、新島に何冊かの本を貸してくれました。 ロビンソン・クルーソー物語」には海外へのあこがれをかきたてられ、アメリカ合衆国を紹介した( 聯邦志略」を読んでアメリカの政治や教育、福祉政策などに驚嘆しました。そして( 聖書」の天地創造物語から神の存在を知り、自分は親や藩主よりも神に感謝し、神に従わなければならないと思うようになり、日本を脱国する決意を固めていきました。 3.函館時代 玉島航海から一年後の1864年3月、新島は偶然にも玉島航海で一緒だった備中松山藩の武士たちと出会い、今度は快風丸が箱館に行くことを聞きつけました。新島は自分もこの航海に同行して箱館に行くことを思い立ち、早速藩主のもとに行って同行を願い出て許可をもらいました。表向きは箱館にある武田塾という学問所に留学するというものですが、内心には海外脱出の夢を抱いていました。 箱館に着いた新島は武田塾を訪ねますが、先生の武田斐三郎は留守で、代わりに塾頭の菅沼精一郎が相談に乗ってくれました。新島は外国人と知り合いになりたいと相談すると、数日後菅沼はロシア人司祭のニコライを紹介してくれました。新島は司祭館に住ませてもらう代わりにニコライに日本語を教えました。その後新島はニコライに海外渡航の夢を打ち明けましたが、ニコライは協力を断り、思いとどまって自分のもとで勉強するように勧めました。 ニコライに断られた新島は再び菅沼精一郎に相談しに行くと、菅沼は沢辺琢磨を紹介し、沢辺は福士卯之吉を紹介してくれました。福士は元々船大工でしたが、箱館在住のアメリカ合衆国領事から英語を学び、アレクサンダー・ポーター商会で通訳として働いていました。新島はしばらく福士から英語を学んでいましたが、やがて脱国の決意を打ち明け、福士は協力することを約束してくれました。 4.(脱国と洋上生活 福士は箱館に寄港していたアメリカ船ベルリン号の船長セイヴォリーと交渉し、新島を船に乗せてもらうことに成功しました。1864年7月17日( 旧暦6月14日)深夜、新島は町人に変装して福士の待つ波止場に行き、福士は用意していた小舟に新島を乗せて沖に停泊しているベルリン号を目指しました。ベルリン号で待ち構えていたセイヴォリー船長は新島を船室の物置に匿ってくれたので、翌朝の荷物検査でも発見されず、新島は無事に日本を脱出することができました。 セイヴォリーは新島を、船長付きボーイとして働かせることにしました。最初は給仕や掃除洗濯といった仕事を苦痛に感じましたが、やがて新島は自分でまげを切り落として武士であることをやめました。ベルリン号は上海を経由して長崎に入港する予定だったので、新島はセイヴォリーに、上海で自分を乗せてくれる船を探す

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