新島襄の生涯
3/61

第一章 誕生から脱国まで 1.誕生・幼小年時代新島襄は1843年2月12日( 旧暦1月14日)、江戸の神田にあった安中藩江戸屋敷に生まれました。四人姉妹に続く長男だったので、家族は跡取り息子として大変喜びました。幼名は七五三太で、その由来には二つの説があります。一つは1月14日が正月の松の内の期間内で家にしめ縄が飾られていたので七五三太と名づけられたというもの。もう一つは祖父弁治が喜びのあまり( しめた」と叫んだことから名づけられたというものです。 新島は外で遊ぶことが好きな子どもで、とくに凧揚げに夢中になり、夕食時に家に帰るのを忘れることがたびたびでした。それを戒めるために父民治は凧を取り上げましたが、ひそかに材料をそろえて自分で作りあげるほどでした。ところが8歳の頃にごみ溜めの囲いの上から落ちてこめかみに大けがをしたため、新島は外で遊びまわることをやめて勉学に打ち込むようになりました。 父民治は達筆で祐筆という仕事をしていたこともあり、新島は5歳頃から父に習字を習っていました。10歳になると漢学を学ぶようになりましたが、学問を奨励した藩主板倉勝明は彼の才能を見込んで蘭学も学ばせました。14歳となって元服を迎えた新島は、藩主から父の後を継ぐようにと祐筆補助を命じられました。しかし新島は蘭学に熱中するあまり職務を怠り、わざと藩邸を抜け出して蘭学所に通うようになります。板倉勝明の跡を継いだ弟の勝殷は学問への関心がなく、新島を呼びつけて学問をやめるよう説得しましたが、新島が懸命に学問を続けたいと訴えたため、学問所へ行くことを認めました。 2.(青年時代 1860年11月、17歳の新島は軍艦教授所に入所し、ここで教授を務めていた中浜万次郎と出会います。中浜万次郎は土佐の漁師で、1841年出漁中に遭難していたところをアメリカの捕鯨船に助けられてマサチューセッツ州に渡りました。そして、船長のおかげで学校に通って勉学に励み、航海士となって帰国したのです。新島はここで数学、航海術、測量術などを熱心に学びました。 1862年11月、19歳の新島は軍艦教授所で学んだことを認められて、備中松山藩主板倉勝静から玉島航海に参加するよう求められました。新島は備中松山藩の武士たちとともに江戸湾から快風丸に乗り込み、太平洋岸から大阪を経由して玉島までのコースをおよそ2か月かけて往復しました。生まれて初めて外海に出て異文化に触れた新島は、この航海で世界の広さを実感し、ものの見方や考え方を広げることができました。

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る