新島襄の生涯
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連れ出してくれる船を探し始めた。( (あれこれ苦労した末に、私は上海行きのアメリカ船〔ベルリン号〕に乗りこんだ。上海の河口に到着ののち、ワイルド・ローヴァー号に乗り換え、約8ヵ月間中国沿岸を往来した。神に守られて、4ヵ月間航海したのちボストン港に着いた。( (初めて〔同号の〕H・S・テイラー船長に〔上海で〕会った時、 もしアメリカに到着したら、お願いですから学校に行かせてください。よい教育を受けさせてください。そのため私は力の限り船内で働きますし、あなたから賃銀をいただくつもりもありません」とお願いした。船長は 帰国したら学校に通わせてやろう。そして船内では私の使用人として働かせてやろう」と約束してくれた。船長は金銭こそ支給してくれなかったが、衣服や帽子、靴、その他のものを買ってくれた。船中では航海日誌のつけ方、緯度、経度の測定の仕方を教えてくれた。( (当地〔ボストン〕に着くと、船長のおかげで長い間船内にとどまることができた。その間私は船を守る荒くれた不信心な船員たちと一緒だった。港の人は誰も彼も次のように言って私をおどした。 南北戦争以後、物価があがったので、陸の上ではおまえに救いの手を差しのべてくれる者など一人もいないぞ。残念だが、もう一度海に戻るしかない」と。 (私は衣食のために相当働かなくてはならないとも思った。学校に納める金を稼ぐまでは、とうてい学校には入れない。そのような考えにとりつかれると、私はあまり働く気が起こらず、また本も楽しく読めなかった。精神に異常をきたした人のように長時間ただあたりを見回すだけだった。毎晩、ベッドに入ってから お願いですから私をみじめな境遇に追いやらないでください。どうか私の大きな志を成就させてください」と神に祈った。( (それから私は船の持主であるハーディーさまが私を学校へ送り、経費を一切出してくださるかもしれないことを知った。船長からこのことを初めて聞かされた時、私の両眼は涙にあふれた。氏への感謝の気持ちが大きかっただけでなく、神は私をお見捨てにならない、と思ったからである。 現代語で読む新島襄」(丸善(2000(年( P.50~56)

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