付録)1.(私はなぜ日本を脱国したのか 脱国の理由書)1865年10月 私はある藩主〔板倉勝明〕の江戸藩邸で生まれた。父〔新島民治〕は藩邸内で書道の師匠と祐筆をつとめていた。祖父も藩主に仕える身で、全体〔足軽など〕を取締る執事だった。私は(6(歳から日本の古典と漢籍を学び始めたが、11歳の時、それまでの考えを一変させて剣道と馬術を習い始めた。16歳の時、漢籍を学びたい気持ちが高まったので、剣道などはやめてしまった。 けれども藩主は私を日誌記録係に抜擢した。しかし、それは私がやりたくなかった仕事だ(った。私は1日おきに藩邸の執務室に通わなければならなかった。そのうえ自宅で父に代わ(って男の子や女の子らに書道を教えなければならなかった。そのため漢学塾に通って漢文を勉強することはできなかった。けれども本は毎晩自宅で読んでいた。( ある日、友人がアメリカ合衆国の地図書〔『連邦志略』〕を貸してくれた。それはあるアメリカの宣教師〔E・C・ブリッジマン〕が漢文で書いたもので、私はそれを何度も読んだ。その本で大統領の選出、授業料無料の公立学校や救貧院、少年更生施設、工場などを建てることを知って、脳みそが頭からとろけ出そうになるほど驚嘆した。そこで私は、わが国の将軍もアメリカの大統領のようでなければならないと思い、こうつぶやいた。( ( ああ日本の将軍よ、なぜあなたはわれわれを犬や豚のように抑圧するのか。われわれは日本の人民だ。かりにもわれわれを支配するのならば、あなたはわれわれをわが子のように愛さなくてはならない」と。( ((その時以来私はアメリカのことを学びたいと思うようになった。しかし、残念なことにそれを教えてくれる教師はひとりもいなかった。私はオランダ語を勉強したくはなかったけれども、私の国ではオランダ語を読める人が多かったから、それを勉強せざるを得なかった。そこで私は蘭学を学ぶために教師の家に1日おきに通った。 ある日、私は藩邸の執務室に出ていたが、記録することは何もなかった。そこで執務室を抜け出し、蘭学教師の家に行った。やがて藩主が私に会いに執務室に来られた。ところが誰もそこにいなかったので、藩主は私が戻ってくるまで待っておられた。私に会うなり藩主は私を殴りつけた。 なぜ執務室を抜け出したのか。ここから逃げ出すとはもってのほかだ」。( (10日後に私は再び逃げ出したが、藩主には気づかれなかった。しかし、残念にもその次に逃げ出した時には見つかってしまい、殴られた。 おまえはなぜここから逃げたのか」と尋ねられたので、私は答えた。( ( 外国の知識が学びたかったのです。外国のことをできるだけ早く理解したいのです。ですから執務室に詰めて、お殿さまが決められた規則を守らなくて
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