新島襄の生涯
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第五章(諸学校開校から永眠まで( 1. 地方にも教育を!」( 新島は、さまざまな地域にキリスト教主義学校ができることを夢見ていました。1886年には、宮城県に宮城英学校を設立して自ら校長となりました。 SEEK(TRUTH(AND(DO(GOOD 真理を求め善を為せ)」というモットーを掲げて、翌年には東華学校と改称されましたが、新島が亡くなった後 1892年)に廃校となってしまいました 今も仙台二華中高校の校舎外壁にはこのモットーが掲げられています)。1889年には群馬県に共愛社が設立され、新島も発起人の一人として名前を連ねています。( また、精神的な面だけでなく肉体的な面からも人々を救いたいとの想いから、医学にも注目していました。アメリカン・ボードの医療宣教師であった(J.C.ベリーと相談して、1887年、同志社病院と京都看病婦学校を設置しました。ベリーが病院長、新島が看病婦学校の校長になりましたが、財政難のため(1897年に病院が、1906年に看病婦学校が閉鎖されました。2015年に開設された同志社女子大学看護学部という形で新島の想いが引き継がれました。( 2.二度目の欧米漫遊の旅と遺言( 1884年4月5日、新島は 第二次欧米漫遊の旅」に出かけました。静養を目的とした旅行でしたが、大学設立資金を募り、キリスト教についての理解を深める旅となりました。イタリア滞在中、ローマ法王に面会したいと思いましたが、 法王の前にひざまずいて敬意を表わすこと」が義務づけられていたために断念したそうです。 私の膝は法王の前で曲げるには余りにも固すぎる」と、権威や権力に対して反骨心あふれる新島でしたが、自分の志である大学設立のためには、あちこちで頭を下げて献金を募りました。 こうして、1888年11月には 同志社大学設立の旨意」が全国の新聞、雑誌に掲載され、発表されました。1889年11月28日夜、群馬での募金活動に走り回っているさなかに、激しい腹痛に襲われました。神奈川県大磯の百足屋にある離れ座敷を借りて静養していましたが、1890年1月17日には 急性腹膜炎症」の診断を受け、妻の八重が到着したときには危篤状態でした。1月21日早朝、同志社の未来図、将来への希望などについての遺言を口述で伝え、徳富蘇峰が筆記しました。 3.永眠・葬儀・墓( 新島は、1890年1月23日午後2時20分、46歳11ヶ月の地上の生涯を終えました。初めての東海道汽車旅は、遺骸としての旅でした。京都駅到着は深夜のみ

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